日本臨床睡眠医学会
~日本に境界なき睡眠医学を創る集い~

サイト内検索▶

第13回 最後の転身〜最終回だけど続けます?〜

2013 年 8 月 30 日

           

(前)テキサス州ヒューストン メソジスト病院 
               神経内科神経生理部門 河合 真

 2009年から今のヒューストン メソジスト病院に勤め始めたころからこのエッセイを書き始め結構書いたつもりだったが、たったの12回にすぎなかった。この間に単行本化の話がどこから飛びこんできたりしないかなあと虫のいいことを考えていたが、そういう話もなく最終回を迎えることになった。なぜ最終回かというと私が今の職場を辞めるからである。そしてヒューストンから引っ越してしまうので、いくらエッセイを書いたとしても、ヒューストン便りではなくなってしまう。過去のエッセイを読み返してみると、自分がその時々に考えていたことが思い出され自分史か日記を読むかのような感覚になる。とくに第9回 「(恐怖の)アメリカパーティー失敗あるあると睡眠不足」を読むと娘が生まれたときのぼーっとした感覚とやらかしてしまった恐怖がよみがえってくる。
自分の内に秘めておけなかったことを吐き出すようなセラピーに似たエッセイであったが、時々学会でお世辞でも「ヒューストン便り面白いです。」と言ってもらえるととてもうれしい。

 さて、なぜ私が職場を変わることにしたのか?ということを書きたいと思う。大きく分けて二つの理由がある。一つ目は「今の職場を辞めたくなったから。」で、二つ目は「次の職場が決まったから」である。
まずは、今の職場を辞めたくなった理由を説明しよう。今の職場はヒューストンというテキサス州の大都市にある1000床規模の私立病院である。コーネル大学と提携しているのでアシスタントプロフェッサーという肩書きをもらって指導医として勤務している。勤務内容は、睡眠とてんかんの外来を週3回行い、脳波読影、ICUモニタリング、てんかんモニタリングを毎日行うというものである。フェローやレジデントもローテートしてくるので、教育を行うことも結構多い。給料は、日本の都市部の病院よりもよいと思う。幸いにも3年目から黒字化したので、黒字分の半分がボーナスとして振り込まれている。(米国の指導医の給料の契約は、個人の契約でサラリー制と出来高制に分かれるが、多くは折衷の場合が多い。すなわち定額のサラリーが医師個人の収支に関わらず支払われるが、調子良く収支が黒字化すると余剰分をボーナスとして振り込んでくれる制度である。夢のような制度だが、ごく一般的である。)当直は、病院に泊まる当直はなく、宅直になる。きついときはあるが、問題にはならない。経済的、勤務体系的には全く問題のない職場である。

 しかし、私にとって大きな問題があった。それは、睡眠ラボが私のコントロール下にないということである。おかげでてんかんの領域からみる睡眠やICUからみた睡眠の臨床研究はできるのだが、肝心要のPSGを読む機会がないのである。「PSGは睡眠医学の共通言語である」と言っておきながらPSGが読めない状況にフラストレーションが溜まっていった。もともと、この病院の睡眠ラボは同僚が立ち上げ現在の状況まで苦労して成長させたということも知っているし、睡眠医学しか診療しない同僚がPSGを他の医師と分けて読むと、赤字化してしまう(同僚の収支も独立しており、その医師の主な収入源である睡眠検査を読まないと収入が減りサラリーや経費を引くと赤字化するということ。)こともわかっているのでなかなか「俺にも読ませろ!」とは言えなかった。上司には相談したのだが、「それなら、他の施設の睡眠ラボと提携すればよい」と言われて「なるほど」と思いいろいろ探し、実際睡眠ラボを広げようとしている施設と話が進んだのだが、結局立ち消えになった。ヒューストンの睡眠ラボの供給は完全に過多になっていたのである。

 さらに、私の中で「睡眠医学をちゃんとやりたい」欲がどんどん大きくなってきたのである。この欲求は、学会でいろんな人たちと知り合ったり、ISMSJの運営を手伝ったりした中で、むくむくと成長してきた。そこで、学会誌や米国睡眠医学会のホームページなどで睡眠医学の求人を探したのだが、なかなか自分が考えているような職がない。まあ、今のままでも不自由しているわけでもないし、睡眠の外来はできているし「このまま平凡?(でもないが、、)に生きていけばいい」という思いも確かにあった。しかし、その思いに支配されたとたん自分の生産性が「がくん」と音をたてて落ちるのがわかった。「やる気コントロール」などという本を読んだり、友人と話したりしているうちに自分のやる気が出る状況が「睡眠」と「自己が成長する実感」にあることがわかってきた。

 そんなとき悪魔的な考えが私に宿った。これは、私にとっては甘美、妻にとっては悪夢のような考えなので「悪魔的」と形容してみたのだが、それはもう一度トレーニングに戻って睡眠クリニカルフェローシップをするということであった。
 フェローシップについて説明しよう。早く言えばレジデントの上、指導医の下の存在である。私の教え子のレジデント達が3年の神経内科レジデントを終えて進むステップが種々のフェローシップである。期間はだいたい1-2年である。その期間のうちに神経内科のさらなる専門分野のてんかん、神経生理、神経筋疾患、脳卒中などの集中的トレーニングをうけ更なる専門医資格取得を目指すのである。そして、睡眠医学もこの中に含まれる。私は神経生理学のフェローシップを済ましているので2回目のフェローシップになる。なんだ、それだけのことか?と思うかもしれない。しかし、このフェローという立場と指導医の間には、厳然たる区別があり給料に至っては4−5倍の開きがある。フェローから指導医になれば万々歳で、突然貧乏な生活から解放されるのである。その差があまりにも激しいので、逆に戻ろうなどという馬鹿者はアメリカには非常に少ない。「清貧」という言葉はアメリカには存在しない。大切な仕事=給料のよい仕事、なのである。
「もう一度あの貧乏に戻るのか?本気か?」という私の中の天使と、「何だ今のお前は?死んだも同然じゃないか?フェローシップしろ、お勉強は楽しいぞ?」という悪魔が日々葛藤し始め、そろそろ悪魔が勝利をおさめようとしていたとき、家内が私に言った。「何やってんの?こんなとこでまんじゅう(警察用語でやる気のない奴、死体という意味らしい 大沢在昌著「新宿鮫シリーズ」参照)みたいに一生終えるつもり?わざわざアメリカにいる意味ない。やりたいことやんなさい。」
 結婚前吉野家さえ入ったことがないと言っていたお嬢さん育ちの彼女がいつの間にやら新宿鮫シリーズの隠語まで用いて私を励ましてくれるようになったか、、、という感慨もわきつつ勇気百倍でその後フェローシップ探しを始めた。すると睡眠医学は知らないうちにあまり「人気のない」フェローシップになってしまっていた。特に以前人気のあった呼吸器科の場合は同時平行で(言っては悪いが片手間に)睡眠医学フェローシップができなくなった影響もあるらしい。おかげで競争が緩んでいたので、これ幸いと有名な施設のフェローシップばかりに応募をした。その中には睡眠医学発祥の地であるスタンフォード大学睡眠医学センターのプログラムが当然含まれていた。プログラムディレクターが立花直子先生の旧友だという奇遇も手伝いトントン拍子にインタビュー、採用決定となった。
今でもフェローシップの同意書にサインをするときに、複雑な感情がこみ上げたのを覚えている。「給料低いぞ、いいのか」「いいんだ」「えい、サインしてしまえ。昨日までのまんじゅうの自分、さらば」という感じでサインをした。
 その後は、いろいろな人に辞職の挨拶をして回ったのだが、上司のアペル医師に告げるときだけは、声がうわずるとほど緊張をした。「なぜ、もう一度お前がフェローシップをしたいのか、さっぱり理解できないし、ベストの道とは思えないが、きっと話していない理由がどこかにあるのだろう。グッドラック。」と言ってくれた。相変わらずごまかせない人だなあ、と思いつつ喧嘩別れにならなかったことに安心した。辞職するからといって「怒るんじゃないか?」などと考えている小物な自分が恥ずかしかった。今思うと、「あいつ(同僚)がいるからPSG読まれへん。PSG読めへんのやったら辞める!」と言った方がわかってもらえたのかもしれない。持ち前の「誰も傷つけたくない」という末っ子根性がでて、薮を棒でつつくような「アカデミックな睡眠医学がしたい」などという言葉でごまかそうとしたのだが、きっとお見通しだったのだろう。いつか彼に認めてもらってグランドラウンドで招聘されたら、きっとそのとき初めて私のやりたかったことがわかってもらえると今は思っている。「PSGができないのだったら辞めたる!」は彼には内緒である。次会うときはもうちょっと格好いい言い方を考えよう。

 というわけで私はヒューストンからスタンフォードに旅立つことになった。その道中の写真を下にのせる。子供のバイオリンの弓があまりの熱さで折れてしまった以外は無事な引っ越しだった。そしてスタンフォードでの睡眠医学フェローシップが始まった。長い間「ヒューストン便り」の愛読感謝します。
 
 この続きは「スタンフォード便り」で。

ヒューストンからスタンフォードに自動車で4日間かけて引っ越しをした。
とても広いテキサス州からでるまでまるまる1日かかる。


一日目のホテルで「自分でワッフルをつくろうマシン」で作ったワッフルだが、テキサス州のホテルなのでワッフルの形がテキサス州の形になっている。


途中制限速度が80マイル(128キロ)まで上がった。風景の変化がなく、かなりの退屈な道が続く。


ガラガラ蛇に注意。だからカウボーイブーツをはかないといけないらしい。ファッションにも実用の意味がある。


アリゾナ州を超えたあたりから気温があがり始め室外気温が40度を超えだした。


カリフォルニア州に近づくと山が増えだしテンションがあがる。


ニンニクが名産品らしく、やたらニンニクを積んだトラックが走っている。


巨大な風車でなぜか家内のテンションが上げる。「近くでみたことないからみたかった。」らしい。


とうとうカリフォルニア州パロアルトの新たな自宅周辺に到着。テキサスと違った町並みに期待に胸を踊らせる我が家であった。

©2013ISMSJ

本サイト内の写真画像・コンテンツおよびその一部を許可なく記載することを禁じます。