第17回「睡眠障害」を使う度に睡眠医学は死んでいく
2023 年 2 月 8 日
スタンフォード大学 睡眠医学センター
河合 真
前回 「第9回〜「睡眠障害」に別れを告げよう〜」 を書いてから6年近くになる。このエッセイだけでなく「睡眠障害」という言葉に触れるたびに地道に訂正を促す作業をISMSJとしてやってきた。しかし、この6年間で睡眠医学という分野において「睡眠障害」という用語の使用に関して問題意識が高まったかどうかというと、それはあまり芳しいものではない。
確かに、私を取り巻く環境だけでいえば、私の著作を読んで原稿依頼をしてくれる人達はあまり使用しなくなってきている。しかし、ほんの少しでもその範囲の外に出ると途端にこの用語を見かける。さらに、マスコミに出てくる睡眠関連の記事には、全く遠慮も問題意識のかけらもなく使用されている。それらの記事を監修したり、インタビューを受けたりしているのは睡眠医学の専門家であるはずなのに、である。
さて、私は自分のことを結構打算的で妥協の多い人間だと思っている。そうしないと生きづらいし、人間関係もギクシャクする。説明するのも面倒臭い。特に私のように医局の縄張りの外を主戦場としてキャリアを歩んできた人間にとって日々が打算と妥協の連続である。しかしながら、私はこの用語には妥協する余地はないと考えている。浅薄にこの問題を捉えている人々が我々のことを一種の過激派(「睡眠障害」否定派とでも言おうか)とラベル付けして「ISMSJ関連の専門家達はあの用語に敏感だから気をつけろ」という噂をしているかもしれない。それはそれで構わない。このエッセイを読んでなぜ我々がこの用語を問題視しているか、理解するきっかけになってもらえればいい。
まず基本的なことをおさらいしよう。この用語の問題点は「複数の意味があり、意図が通じない、そして議論ができない」ところだ。繰り返すがこの用語は、1)「不眠もしくは不眠症という疾患」、2)「漠然とした睡眠に関する問題 」、3)「睡眠に関連する疾患群(=睡眠関連疾患)」の意味で使う人が混在している。
実際に例を考えてみる。1)は「現代において睡眠障害は大きな問題で、うつ病や自殺などと関連があると言われています。」などという使われ方をする。これはこのフレーズの後段の「うつ病や自殺」と言う言葉が出てきて「ん、多分不眠症のことかな?」と脳内変換する。2)は薬局などで「夏の睡眠障害に、〇〇ドリンク」などと言う使われ方をする。「夏の」と言う文言から「熱くて寝苦しい」から、きっと2)かな?と連想ゲームを繰り広げる。3)は私のような睡眠医学の専門家が「規則正しい生活をすることで睡眠障害が改善する。」と言う記事を書いたりする場合だ(実際によくこういう記事を見かける)。これは本当に始末が悪い。3)の意味として書いている場合が多いのだが、人によっては、「不眠症」と受け取るかもしれないし、またある人は漠然と「ああ、寝苦しいことか?」と受け取るかもしれない。そして、「ん、どのsleep disorderの話?」と詳しい説明を求めるかもしれない。このように議論にさらなる説明を必要とするので、自分で書いていてイライラしてくる。
このようにこの用語の問題点ははっきりしているのに、なぜこの用語がまだ存在し続けているのか意味がわからない。そう思っていたのだが、ここで私は気づいてしまった。実は、この用語を使っても問題のない世界が存在するのだ。そして、それは本来の睡眠医学とは真逆の要素に溢れた世界である。キーワードとしては「閉鎖的コミュニティー」「一方向発信」「議論しない」である。では、その世界を考えてみよう。
例えば、ある教授がこの用語を「睡眠に関連する疾患群」という意味だけで使っていたとする。その教室員たちはこの用語をその大学の出身者でできたコミュニティーの中だけで使えば「意味がわからないから、使うのをやめろ!」と言われることはない。そしてその閉鎖的コミュニティーの中だけであればこの用語の問題意識を持つこともない。このSNS全盛の時代だが、閉鎖的な医療界というのは厳然と存在し、「嘘だろ?」というくらいそのコミュニティーでしか通じない用語が使われていることがある。「睡眠医学の専門」などと自称しても他の学派との交流がなければこの用語を使い続けても何の問題意識も持つことはない。
さらに、最近よく見かけるのは一方向性の情報発信におけるこの用語の使用だ。これは、オールドメディアと呼ばれる新聞やテレビなどである。これらのメディアでは情報を受け取る側からのフィードバックの方法がない。このようなメディアでこの用語が用いられると我々はなす術がない。受け取る側の一般人はそれこそ「なんか難しいこと言ってるなあ、どういう意味かな」と各々が独自の方法で解釈することになる。そして、「使うのはやめてほしい」という声は届かないので、改善することもない。
さらに、この用語の問題は学会でも生じる。睡眠医学の専門家は他に元々の専門分野を持っている。私も元々脳神経内科医、神経生理専門医であるのでそれらの分野の学会に「睡眠医学代表」のような顔をして出席することがある。「すべての患者が眠るから、すべての分野に関係がある」からこそで、睡眠医学の重要な活動の一つである。自分が他の分野に出張した時にこそ活発な議論をすべきだし、それこそが睡眠医学の進歩に貢献する最も面白い瞬間ではないかとおもっている。ところが、この用語を使ってしまうと議論などできるはずもない。定義のところからつまずいてしまっている。少し悪意を持って言うなら、私の機嫌が悪くてシンポジウムの議論早めに切り上げたいと考えたなら「睡眠医学の素人の君たちとは議論しないよー」というオーラを出しつつ、「睡眠障害はこのように非常に重要なのです。ですから今後この分野でも睡眠障害に目を向けていただければ幸いです。」などとこの用語を多用して煙に巻いてしまうなんてことが可能だ。
「閉鎖的コミュニティー」「一方向性」「議論しない」例を上記に挙げたがこれは多分野集学的という睡眠医学の善とされる要素とは全く逆の要素である。睡眠医学は多くの分野、多くの職種の人達が知恵を持ち寄り、その中で自分の閉鎖的な縄張りを超えて、双方向性(互師互弟の精神とも言える)に議論を尽くして進んできた。そして、そのスタイルは今後も変わることはない。何しろすべての医療分野の患者は眠るのだから、フロンティアは睡眠医学が手をつけていない分野に広がっているのだ。
だからこそ言いたい。この用語を用いることは睡眠医学の自己否定だ。
「そんな、、ただ知らなかっただけなんですけど、、、」という人もいるだろう。私だって鬼じゃない。許そうじゃないか。でも、今日までですよ。